みなさんこんにちは。
2月24日は メキシコではEl día de la bandera。国旗の日です。
メキシコの国旗はどのような意味なのでしょうか?
そして、メキシコの国旗は独立時から幾度となく変わっています。
今回はメキシコの歴史を国旗の変遷と共に振り返ってみたいと思います。
メキシコの国旗の意味
それではメキシコの国旗を見ていきましょう。
メキシコの国旗は左から見て「緑、白、赤」の縦三色の中央に、国章を配した旗です。
それぞれの色の意味を見てみましょう。
というように、それぞれの色が別の意味を持っています。
独立したときのカラーを強く感じますね。また、カトリックがメキシコにおいて強く浸透していることがわかります。
また、真ん中にある国章は何なのでしょうか?
実は中央の国章は1325年のアステカの首都「テノチティトラン(現在のメキシコシティ)」の創設を示しているとされています。
国章の「湖の中央の岩に生えるサボテンに蛇をくわえた鷲がとまっている」図は、アステカ神話にあった「そこに首都を創設せよ」という予言を示しています。
蛇は大地の可能性、鷲は太陽の力、うちわサボテンはメキシコの自然環境を表していると言われています。
メキシコの国旗とイタリアの国旗の違いは?
さて、国旗を見てどこかで見覚えがある国旗があると思います。
そう、イタリアの国旗です。
イタリアの国旗もメキシコの国旗と同じく、左から、緑、白、赤の縦三色となっています。
メキシコの国旗との違いは何でしょうか?
一見、国章の有無が異なるだけと見なされがちですが、実際には、イタリアの国旗に使われる緑と赤はメキシコの国旗よりも淡い色彩が指定されており、また縦横の比が異なっているという違いがあるのです!
イタリアの国旗の縦横比が2:3であるのに対し、メキシコの国旗は4:7であり、メキシコのほうがより細長いという点も違いとして挙げられます。
イタリアの旗の意匠はフランスの国旗(トリコロール)を起源とし、19世紀のイタリア統一運動のシンボルとなった経緯があります。
一般的な解釈ですが、同じくイタリアの色の意味をご紹介します。
緑は「国土」
白…「雪・正義・平和」
赤…「愛国者の血・熱血」
またフランス国旗由来であるため、緑は「自由」(フランス国旗の青を置き換えたもの)、白は「平等」、赤は「友愛(博愛)」を表すともいわれています。
イタリアの国旗はフランスの三色旗を起源にしているため、同じくフランスを模したと考えられるいくつかの国の国旗と類似しています。
結論、色の由来が異なり、細かく言えば色も縦横比も違う、とのことでした。
メキシコの歴史を旗で振り返る
それでは、メキシコの国旗と共に歴史を振り返ってみましょう。
1810年:メキシコ独立戦争時
さて、こちらはメキシコ独立戦争時の旗です。
ミゲル・イダルゴは、グアナフアト州にある小さな町、ドローレス・イダルゴ Dolores Hidalgoで司祭をしており、ドロレスの司祭として先住民や混血の農民や労働者達の生活改善に力を入れる農民の暮らしと向き合う司祭だったそうです。
当時、スペイン本国はスペイン独立戦争が勃発する事態となっており、その混乱に乗じ、植民地の解放の機運が中南米各地で高まっていました。
またグアナフアト州からケレタロ州にかけて広がるバヒオ農村での干ばつ、それによる飢饉が広がり、大農園の売り惜しみにより主食のトウモロコシの値段が高騰し農民は苦しんでいた状況を鑑み、イダルゴ自身は社会的抗議を意識し、決起を計画しました。
これがメキシコ独立革命の発端となったのです。イダルゴは農民に対する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、不当に奪われた農民の土地の返還などの要求を掲げていました。
1821年:3つの保証軍の旗
ここから主人公はメキシコ独立を勝ち取った人たちに移っていきます。
その名はアグスティン・デ・イトゥルビデ。後のアグスティン1世です。
実は彼、1798年から1810年までスペイン軍に在籍し、中尉まで昇進した人でした。
1810年にメキシコ独立戦争が勃発した際、独立軍を鎮圧する側であるスペイン軍の一員として闘ったのですが、有能な司令官であったイトゥルビデは、1816年に北部メキシコのスペイン軍を指揮すべく配置され、次第にメキシコ独立軍に同情を寄せるようになり、反乱軍の指導者ビセンテ・ゲレロと秘密交渉をもつに至ったのです。
つまり反逆したわけですね。
1820年にイトゥルビデは、指揮下のスペイン軍を率いて反乱軍に合流した。この軍は「3つの保証軍(英語版)」(Ejército Trigarante)として知られています。
1822年:メキシコ第一帝政
ようやく勝ち取ったこのメキシコ第一帝政、君主制なのでアグスティン1世による政治です。
1822年5月19日に、独立議会はイトゥルビデを皇帝に指名し、イトゥルビデの正式な称号は「神の摂理と国民議会による、初代メキシコ立憲皇帝」(Por la Divina Providencia y por el Congreso de la Nación, Primer Emperador Constitucional de México)とされました。
こうして君主世が始まりましたがなかなかうまくいきません。
そのうち、議会派がイトゥルビデとその政策を厳しく批判し始めたため、皇帝は議会を解散することを10月31日に決定したことをきっかけに国が内乱にまきこまれます。
後にテキサス独立や米墨戦争の際に大統領を務めるサンタ・アナはこれに激怒しサンタ・アナとその部隊はイトゥルビデに対して反旗を翻し、12月1日に共和制を宣言し、ついにはアグスティン1世を亡命たらしめるまでになりました。
わずか8ヶ月で第一帝政は終わりを告げました。
1823年:共和制
1824年に制定された連邦共和制の憲法を廃止し、中央集権となっていた時期のメキシコ。
現在のアメリカのテキサス州及びその周辺が分離、独立しました。
もちろん、メキシコ合衆国はこれを認めませんでしたが、メキシコ世論ではテキサス奪還が強い中、国内情勢が不安定だっためアメリカに対して強い姿勢が取れずにいました。
そして結局、1836年にテキサス共和国が独立し、1846年4月に米墨戦争(1846年 – 1848年)が起こったため、1846年8月に前憲法が復活して合衆国に戻ったのでした。
1864年:メキシコ第二帝政
アメリカ大陸に君主制の同盟国を樹立しようと企てたナポレオン3世の支持を得たメキシコ議会によって樹立されたのがメキシコ第二帝政。
ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナント・マクシミリアンがメキシコ皇帝マクシミリアーノ1世として戴冠することが国民投票で承認された。
そのため、メキシコ第二帝政は「imperio maximilliano」と呼ばれます。
メキシコ第二帝政は、マクシミリアンを支持する保守派とベニート・フアレス率いる自由主義者との間で政争がありました。
1867年にマクシミリアンは廃位され、ベニート・フアレスの命令でケレタロ近郊のセロ・デ・ラス・カンパナスで処刑されてしまいます。
1881年:ディアス独裁政権時代
メキシコ第二帝政時代の後は、マクシミリアンを処刑したオアハカ出身のベニートフアレスが大統領に就任し、再び共和制をしいて政治をおこないました。
このフアレスが台頭した時に活躍したのがディアス。
しかし、フアレスが不正な手段で大統領選挙を続け権力の座に居座っていることに反発し、「政権交代」を掲げて対立するようになります。
1872年にフアレスが急死した後、1876年にクーデターで政権を倒し、ついで大統領選挙を実施して正式に大統領に就任。
しかし権力を握ると彼自身が憲法を改正して大統領の任期延長を繰り返し、結局1911年まで30年以上に渡る独裁権力を維持することとなってしまったのです。
1916年:メキシコ革命
メキシコのディアス独裁政権を倒したラテンアメリカ最初の民主主義革命。
1910年自由主義者マデロの呼びかけに応じたヴィリャやサパタなどの率いる農民軍が1911年に独裁政権を倒しましたが、議会制共和政治を志向するマデロと農地改革を主張するサパタなどの対立から革命路線をめぐって分裂、1914年には一時サパタとヴィリャが権力を握ったが、まもなく排除されます。
その後も官僚派と軍の対立などを経て、1917年に共和制憲法が成立し革命は終わりを告げます。
この1920年代のメキシコ革命の展開の中で、民族主義的な文化運動が盛んになりました。
壁画運動が展開され、リベラ、オロスコ、シケイロスなどの画家が活躍し、現代メキシコ美術が開花します。彼らの壁画運動は公共建造物の壁にメキシコの歴史や自然を大胆に力強く表現するもので、メキシコ国民の民族的自覚を呼び起こすものであったと言われています。
1969年:現行の国旗へ
現在の国旗は、グスタボ・ディアス・オルダス大統領が決めたものです。今まで多くの歴史の中で国旗が変わってきましたが、ラサロ・カルデナス大統領が1940年に2月24日を国旗の日に設定して以来、多くの国民のシンボルとしてメキシコ国旗は愛されています。
最後に
いかがでしたでしょうか?
メキシコの国旗の変遷と歴史はふか〜い関係にありましたね。
ぜひ今度メキシコの国旗を見た際は、長い歴史の上に今の旗があるということを思い巡らせてはいかがでしょうか?
では、また。
緑は「民族の運命における国民の希望」
白…「カトリックや宗教的な純粋さ」
赤…「国に殉じた愛国者の血」