フリーダ・カーロってどんな人?伝記からメキシコの民族芸術の第一人者の作品に迫る

フリーダカーロについてどれくらい知ってる?作品と共に人生を振り返る

皆さん、メキシコの画家と言えばだれを想像するでしょうか?

恐らく、フリーダカーロ。

フリーダカーロはルーブル美術館が作品を購入した初のメキシコ人画家であるとともに、壁画作家である夫、ディエゴ・リベラとともに500ペソ札に描かれるほどのメキシコの現代絵画を代表する存在。

彼女の作品はメキシコや先住民族の伝統の象徴として祝されており、また女性的な感覚や形態を率直に表現したフェミニン・アーティストの代表としても、フェミニストたちから評価されています。

2002年にはアメリカで「フリーダ」という映画がアメリカと日本で公開され、日本でも知名度はアップしました。

メキシコの死者の日を取り扱った「リメンバーミー」でもフリーダ・カーロは登場し、メキシコの画家と言えばこのフリーダがまず想像されるでしょう。

そこで今回はこのフリーダカーロの作品と彼女の人生に迫りました。

フリーダ・カーロの幼少期は病に苦しんでいた

フリーダカーロ,作品,
青い家

フリーダ・カーロは1907年7月6日にメキシコシティのコヨアカン地区にて生を受けます。フリーダカーロの父親はユダヤ系ハンガリー人(ドイツ育ち)のギジェルモ・カーロ氏です。

父ギジェルモ・カーロってこんな人

ユダヤ系ハンガリー人で、宝石商の家系に生まれ、ドイツ・バーデンバーデンで育つ。1891年、母親が死去したことをきっかけにメキシコへ渡航し、メキシコ先住民族の血を引くマティルデ・カルデロン=イ=ゴンザレスと再婚を果たす。フリーダ、クリスティナという2人の娘をもうけた。

建造物写真家として名が知れるようになってきたころ、スペイン統治時代の記念建造物をまとめて写真目録を作るという仕事が政府より委託され、ギジェルモはメキシコ文化財専門の最初の公式写真家となった。

1910年にメキシコ革命が起きます。メキシコ革命とは、ディアス独裁政権の打倒や民主化、農地改革、社会構造・経済構造の変革を目指す民族主義的な革命で、ディアスは失墜します。

それに伴い政府の仕事を受注していたギジェルモも仕事を失い、貧しい生活を送ることになります

フリーダ自身は6歳になった頃に急性灰白髄炎(ポリオ)に感染し、およそ9か月にわたって寝たきりの生活を送ることになります。この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していたそうです。

この頃、父ギジェルモは、フリーダのリハビリを兼ねて良くハイキングに連れて行っており、そこでフリーダに自身の趣味であった水彩画や職業としていたカメラの手ほどきをほどこし、この頃の経験がフリーダの芸術家としての基礎が醸造されることになります。

1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業すると、メキシコの最高教育機関の国立予科高等学校へ進学しました。そして、フリーダはカチュチャスと呼ばれるグループに入り、国民社会主義的考えに傾倒し、文学に熱中します。

活動を通じてカチュチャスのリーダーであったアレハンドロと恋仲になりました。

事故をきっかけに絵画に没頭し、ディエゴ・リベラに出会う

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フリーダカーロとディエゴ

ある日、通学に使用していたバスが複数の死傷者の被害を受けた衝突事故に遭い、フリーダ自身も重傷を負います。3か月もの間入院を余儀なくされます。さらに、その後も事故の後遺症で背中や足の痛みと一生つきあわなればならなくなってしまいました。

入院中に父ギジェルモより絵を描くためのキャンバスをプレゼントされ、その時よりベッド上での本格的な芸術家の活動が始まりました。この頃恋人だったアレハンドロはヨーロッパに行くということで関係は破綻、より一層活動に勤しむことになります。

その後、通常の生活が送れる程度に回復すると、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党します。その共産党のパーティで画家ディエゴ・リベラと出会ったのです。

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国立宮殿の壁画

Diego作のPalacio Nacionalの壁画がこれです。メキシコの国立宮殿で見ることができますのでぜひ見てはいかがでしょうか?

ディエゴ・リベラってこんな人

1886年、グアナファトにて生まれる。10歳の時美術学校に入学、その後パリに留学し絵画を学ぶ。

1920年にシケイロスよりメキシコの民衆のための芸術を興すという誘いを受け壁画運動に参画。メキシコの民族的な伝統と社会主義的な文脈を組み合わせた壁画を公共建築などに多く描いた。

その頃メキシコ共産党に入党しフリーダと出会う。

フリーダは、芸術家として食べて生きていけるのか、両親を助けるためにお金になる絵が自分にかけるのか、自分の実力を知りたくなり、リベラに意見を求めます。

闘病時代に描いた自分の作品を見せたところ、リベラはフリーダの表現力は天才的だと判断、当時の事をこう言っていました。

とてもいい絵だ。才能を持っている。この独創性は他の人には表現できない。

こうして、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロは接近するようになります。

しかし、ディエゴ・リベラは不貞で有名でした。リベラは女性を称賛することに長けていたため、どんな欠点からも美を見出し、多くの女性と関係を持っていたと言います。それに対して彼は、

生理的に一人だけに誠実ではいられない。誠実はそんなに大事なのか?

と独自の恋愛観を持っていました。それでもフリーダはリベラとの結婚を決意します。

1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚しました。

ディエゴ・リベラの仕事に帯同しアメリカへ

結婚後仕事の都合でクエルナバカに拠点を移していた二人は、サンフランシスコより壁画作成の依頼があり、アメリカに渡航します。サンフランシスコでの仕事が終わった後はニューヨーク、デトロイトなどを転々としました。多くの建物に産業や労働者をテーマにしたフレスコによる壁画を残し大きな評価を得ました。

1933年にはニューヨークのロックフェラーセンターに『十字路の人物(Man at the Crossroads)』と題する壁画を書き上げましたが、アメリカの建国者たちと並んで社会主義者のレーニンの肖像を配した壁画は発注者やマスコミの猛反発を呼び、完成直前に破壊されてしまいます。

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十字架の人物

これが十字路の人物(Man at the Crossroads)。レーニンが描かれており、アメリカ社会で批判の的となってしまいました。この影響によりその後のアメリカでの仕事もすべてキャンセルとなってしまい、一時メキシコに帰国することになりました。

その間、結婚後から宣言通り、フリーダだけに縛られず自由奔放に関係を持っていたリベラはフリーダを悲しませることになります。

さらにフリーダはリベラとの間で妊娠し、とても喜びますが昔遭った事故の影響で子宮と骨盤が損傷しており三度の流産を経験します。

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ヘンリーフォード病院

この作品は「ヘンリーフォード病院」。

流産により出血したフリーダがベッドの上に横たわっています。露出した裸体から6本の静脈のようなリボンが外側に流れており、それぞれに様々なシンボルが付いており、これら6つのうちの1つは胎児であり、リボンが臍帯の隠喩になり得ることを示唆しているとのこと。

フリーダのまわりにある他の5つの物体はは、彼女が記憶しているもの、または病院で見たもの。たとえばカタツムリは、流産が終わるまでにかかった時間について言及しており、花はディエゴから彼女に与えられた実際の物だといいます。

彼女は、自身を取り巻くすべてのものとつながる必要があることを示しています。たとえ彼女が自身の子供を持つことができなくても、つながりに手を差し伸べることを通して画家自身が「母」になろうとする姿が描かれているのではないでしょうか。

その当時の流産してでてきた子供はホルマリン漬けにされ、いまも保存されています。

これらの出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなります。

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メキシコとアメリカ合衆国の国境上の自画像

また、これは「メキシコとアメリカ合衆国の国境上の自画像」。メキシコとアメリカで生活する中でそれぞれの国の様子を描いた様子。

それぞれ対比させながら描かれています。

国境のメキシコ側には部分的に破壊された神殿があるが、アメリカには暗い高層ビルがあります。メキシコには瓦礫、頭蓋骨、豊穣を司る像が山ほどありますが、アメリカにはオートマトンのように見える4つの煙突がある新しい工場があります。そしてメキシコ側に白い根を持つエキゾチックな植物があるのに対して、アメリカは黒い電気コードが伸びる3つの丸い機械が描かれています。

トロツキーをメキシコで匿う

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メキシコに戻った二人はメキシコシティのサンアンヘルでの生活を再スタートします。しかし、落ち着いたのも束の間、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移します。

この年に発表した『ちょっとした刺し傷』はフリーダの心理状況をつぶさに反映しています。

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ちょっとした刺し傷

また、当時、世界はスペイン内戦が始まり、左派と右派の戦いが世界中で起きようとしていました。スペイン内戦では反ファシズム陣営である人民戦線(左派)をソビエト連邦やメキシコが支援しており、フリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込んでいきます。

スペイン内戦ってこんな戦争

スペイン内戦は、1936年から1939年までスペインで発生したスペインでの人民戦線政府とフランコの指揮する軍部の間の内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和派)と、フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。

ドイツ・イタリアは反乱軍を、ソ連と国際義勇軍(メキシコなど)が政府を支援して国際的な戦争の様相を呈し、また第二次世界大戦に先行する戦争となった。

ノルウェーがモスクワの外圧によって追放した革命家レフ・トロツキーがメキシコにやってきます。ディエゴがフリーダに話を持ち掛け、フリーダはトロツキーと彼の妻を「青い家」へ迎え入れ、1939年まで住居を提供しました。

フリーダとトロツキーは短い間ながら関係を持っていたと言われています。

フリーダ・カーロの国際的な活躍とリベラとの複雑な関係

トロツキーとの交流を通して、フランスの詩人であるアンドレ・ブルトンと親交を持つようになります。

アンドレ・ブルトンはシュールレアリスム運動の指導者のひとりであり、当時海外に個展を出し始め世界から注目を浴び始めていたフリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立ちます。

フリーダ自体、ブルトンを始めとしたシュールレアリストに興味を持っていましたが考え方の違いによりパリの芸術家たちと深い親交を持つことはなく、戦争の影響で個展も経済的には失敗しましたが、後にルーブル美術館により展示作品が買い上げられ、彼女はルーブルにコレクションされた最初のメキシコ人画家となりました。

この時に、ピカソなどとも知り合います。

フリーダは、シュールレアリストとのラベルをはられることを拒否しており、自身の作品は夢よりも自身の現実を反映したリアリズム志向であると主張しています。

シュールレアリスムとは

戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動。日本語では「超現実主義」と訳される。シュルレアリスムは、フロイトの提唱した精神分析理論を支柱として、人間の無意識に芸術の根源を見い出し、現実の奥に隠された「現実を超える現実」を表現して、真の自由を獲得するという運動。

リアリズムとは

写実主義ともいわれる。現実を空想によらず、ありのままに捉えようとする。

社会主義リアリズムとは、ソ連などの社会主義国によって公式とされた、社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め革命意識を持たせるべく教育する目的を持った芸術。

その頃、1939年11月6日リベラとの離婚が成立し、フリーダは生家である「青い家」へと戻りました。

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二人のフリーダ
『二人のフリーダ』の考察

この自画像は、カーロの最も有名な作品の一つであり、最大の作品。ここに描かれている二人の画家はリベラと離婚した際に経験した感情的苦痛の象徴となっている。

左側のフリーダは結婚時のモダンなヨーロッパ風の衣装を着て描かれている。婚姻期間中、フリーダははリベラの強いナショナリズムの影響もあり先住民にますます興味を持つようになり、右側で身に着けているような伝統的なメキシコの衣装を模索し始めた。

両方のフリーダが心臓を露出させているが、左側の白いドレスの女性は解剖されたようであり、さらに心臓から伸びる動脈が切られて出血しているようである。右側の女性の動脈は無傷のままで、メキシコのドレスのフリーダの心は維持されているのに対して、彼女の最愛のディエゴから切り離されたヨーロッパのカーロは、ドレスの上に大量に出血している。

孤独を忘れようとフリーダは作品制作に没頭していた頃、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、作品制作ができないほどになってしまいました。そこでアメリカに渡り治療を始めます。

医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダはリベラと再婚をします。二人は「青い家」で生活を行うこととなります。

1940年代に入ると、メキシコ内においてもフリーダの名は知られるようになり、様々な賞を受賞し、複数の委員会委員に選出され、教員にもなりました。

1942年には文部省が支援したメキシコ文化センターの会員に選出され、メキシコ文化の振興と普及を目的とした展示会の企画や講演、出版物の発行などに広く携わりました。

フリーダカーロ,作品,

この絵はベジャス・アルテス宮殿で行われる美術展で二等賞をとった作品です。

この作品は、ドン・ホセ・ドミンゴ・ラヴィンによって依頼され、ラヴィンはフリーダに、フロイトの「モーセと一神教」という本を読み、この本に対する彼女の理解と解釈を描くよう依頼した作品となっています。

フリーダカーロの晩年

1940年代の終わりごろになるとフリーダの健康状態はさらに悪化してしまいます。1950年には右足の血液の循環が不足して指先が壊死したため、切断手術を行うほど。その後、鎮痛剤なしで生活ができなくなり、主治医は膝までの切断をします。

フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになりましたがフリーダは生きる気力を失ったようにふさぎこむようになりました。

1954年2月の日記にフリーダは次のように綴っているそうです。

6か月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った。いまだに自殺したくなる時がある。ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。なぜなら、私がいなくなれば、彼がさびしがるだろうと思うから。

この時代の作品の代表作としては《傷ついた鹿》(1946年)などがあり、これらの作品は彼女の悪化した身体状態を反映しています。

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傷ついた鹿

そして、1954年の7月13日、フリーダは肺炎を併発して帰らぬ人となりました。

フリーダカーロの死後

1954年、フリーダがその47年の短い生涯を閉じたとき、夫で画家のディエゴ・リベラは、フリーダの遺志を引き継ぎ、ふたりが暮らした彼女の生家「青の家」の小さなバスルームのドアを、彼の死後15年間は開けてはならない、と言い残します。

ディエゴ・リベラはフリーダを失った翌年の1955年に別の女性と再婚し、1957年にメキシコシティでなくなります。

その後、彼が生前から計画していたとおり、青の家はフリーダ・カーロの博物館となります。しかし、そのバスルームは、なぜかおよそ半世紀もの間閉ざされ、そのドアが開かれたのは2004年のこと。そこで初めて、バスルームに息を潜めていたフリーダの身の回り品300点以上が日の目を見ることになったのです。

青い家のアクセス

Museo Frida Kahlo

Londres 247, Del Carmen, Coyoacán, 04100 Ciudad de México, CDMX, メキシコ

フリーダ・カーロに関する本の紹介

この本ではより深くフリーダ・カーロの人生を誕生から死まで順に追っていくことができます。

また、本編はカラーなので作品もちゃんと見ることができます!
作品についても彼女の人生と関連させて解説されているので、そこも非常に面白いです!

最後に~メキシコでフリーダカーロの作品を見よう~

いかがでしたでしょうか?

フリーダ・カーロは生涯にわたって200点を越える作品を世に残しており、その大半が自画像であったために、セルフポートレート(自画像)の芸術家として知られていました。

夫のリベラとの関係、事故後に痛めてしまったの自身の健康状態、それにより子供が産めない身体になってしまい流産を経験した事など、作品はその時フリーダに起こった出来事を象徴的な意味を込めて描くことが多く、フリーダの心情を表現しているように思えます。

メキシコについて詳しくなるための本も紹介しています。ぜひご覧ください!

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渡邉海也
メキシコシティに留学をしていましたカイヤと申します。スペイン語、アグリビジネス、移民問題をUNAMで学び、空手をメキシコでも稽古をし国際交流、そしてPinbox S.A. de C.V. でインターンという三本立てで生活をしていました。メキシコ滞在を通して感じたことを皆様にシェアできたらと思います。よろしくお願いします!