【あれから50年】メキシコ一悲惨の1968年10月2日に何があった?|UNAMで黙とうのライトアップ

スポンサードリンク



1968年10月2日に起きたトラテロルコ事件を振り返る

皆さんは最近この画像を見かけませんか?

2 de ocutubre. Nunca más. 意味は、「もう二度と」という意味です。今から50年前の1968年10月2日、メキシコはメキシコオリンピックの開催に向けて国全体が盛り上がっていました。しかしそんな最中、200人~300人の学生や市民が虐殺されたトラテロルコ事件が起こりました。

メキシコ・オリンピック開催を直前に、高まる学生運動に業を煮やしたメキシコ政府は、その日、集会のためにメキシコシティ中心部のトラテロルコ三文化広場に集まった学生たちを弾圧したのです。

 

当時のメキシコ社会

1968年はメキシコ五輪が開催されたという明るいニュースがあった年、しかしその一方、アメリカ合衆国におけるベトナム反戦デモやフランスのパリの5月革命、日本の全共闘、東大紛争など、世界規模での学生デモが頻発した年でもありました。

そして、メキシコシティでも同年7月末に学生デモと警官隊が衝突したのをきっかけに学生の反政府行動が強まったのです。8月 27日には 30万人もの学生や市民が反政府デモに参加したという記録が残っています。

高度経済成長の成果を国際的にアピールする舞台として、南米大陸初のオリンピックを直前に控えていたメキシコ政府はオリンピックの準備の裏で、治安を乱す恐れのあるデモを好ましく思わず、結果軍による治安維持を名目とした大量虐殺という方法でデモを弾圧しました。

 

悲劇の事件へのステップ

  1. 1968年7月、オルダ大統領はメキシコ国立自治大学(UNAM)にバズーカー部隊をおくり、教師、学生の区別なく逮捕する。これにより政府と学生の緊張が高まった。
  2. 8月27日、いくつかのデモがおき、医者の総合団体が学生との連帯姿勢をうちだす。いきおいづいた学生たちは市の中心部のカテドラル(大聖堂)に「赤と黒の旗」(アナーキズムの象徴)をかかげ、ひろく大衆に活動を印象づけた。
  3. 9月1日、オルダ大統領は「過剰な批判にこれまで我慢してきたが、これ以上は許さない」との旨の政府声明を発表する。
  4. 9月13日、沈黙のデモ「Marcha del Silencio」を決行する。このデモは大衆の支持を得て、250000人もの参加者が静かに街を行進した。

ふくれあがるばかりの市民の異議申し立てに業を煮やした政府はより強硬な実力行使によってデモの鎮圧化にのりだしました。

 

世界最悪の虐殺事件とも言われたトラテロルコ事件

事件が起きたのは三文化広場。現在では観光地として有名で、地球の歩き方にも載っています。三文化広場というのは、メキシコの過去から現在に至る3つの時代を象徴する建造物が一堂に並んで見られる場所であるところから名前が付けられました。

アステカの先住民時代のトラテロルコ遺跡、スペインの植民地時代の古いサンティアゴ教会、そして、近代の高層ビル。3つの時代の3つの文化を象徴している場所なのです。

三文化広場(スペイン語:La Plaza de Tres Culturas)とは、メキシコ合衆国メキシコ市のトラテロルコ地区にある広場である。この広場は、メキシコが辿った3つの歴史文化を見ることが出来る事から、「三文化」と名づけられた。メキシコの建築家で都市計画の専門家マリオ・パニによって設計され、 1966年に完成した。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%87%E5%8C%96%E5%BA%83%E5%A0%B4より

 

事件は、メキシコ五輪開幕の10日前の1968年10月2日、このトラテロルコの広場で学生をはじめ多くの人々集めた大集会が行われていました。 G.ディアス・オルダス政府は強硬策をとり続け,軍隊を出動させてこの動きを鎮圧しようと試みました。

気がつくと市民は軍に包囲されており、集会を解散したその瞬間、私服で学生に混じっていた狙撃隊が発砲を開始し、それを皮切りに、広場は地獄と化しました。陸からのマシンガン、上空ヘリコプターからの攻撃、軍隊が一斉に広場になだれ込み、同時に銃で人々への攻撃。

メキシコ政府は、まったく武器を持たない市民を大虐殺したのでした。また、この広場の周囲の団地群は、事件が起きる少し前から電気と電話を止められ、住人たちは惨状を目撃しながらも、外部に伝えることができなかったといいます。

そして30分もしないうちに数百人の死者を出してしまいました。

以下に当時の事件の写真があります。

 

【注意】グロテスクな画像、暴力的な画像も含まれていますので、同意してからご覧ください。

 

当時、メキシコ政府の極めて厳しい情報統制によって、事実が広く知られることはありませんでした。当時の新聞は、学生の過激派が最初に銃撃を始めて軍と衝突し、29名の死者が出たと報じました。

事件は、都市伝説として語られ、数日後、なにごともなかったかのようにメキシコ・オリンピックは開催されたのです。

 

事件の終焉

その後、内務大臣としてこの弾圧の責任者だったエチェベリアが大統領に就任し、メキシコでは20年にわたって「汚い戦争 (Guerra Sucia)」と呼ばれる反政府派への静かな弾圧が続きました。

2000年、右派野党PANから、ビセンテ・フォックス大統領は、この事件の徹底調査を公約のひとつに掲げて当選し、ルイス・エチェベリア元大統領が逮捕されました。しかし84歳という高齢故にエチェベリア元大統領は自宅拘束となり、数日後には、時効として釈放されました。

最後に一つ。恐ろしいことに、2001年、トラテロルコ事件に関する資料を公表した学生運動の元リーダーが、数日後に変死しました。

 

終わりに

いかがでしたか?怖い事件でしたよね。最後に資料を公表した元リーダーが変死って正直闇しか感じませんよね。

近年メキシコではこのような事件に対し国民が声を上げて立ち上がっています。このような事件が二度と起こらないことを願って。

事件の舞台となった三文化広場には当時の事件を伝える資料館もあります。機会があれば行ってみてはいかがですか?

スポンサードリンク



共有はこちら!~Comparta!~

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です