5月5日はシンコ・デ・マヨ(Cinco de Mayo)!どんなイベントか知ってる??アメリカなど海外でここまで広がった要因は○○なんです。

シンコ・デ・マヨってどんなイベント?

シンコ・デ・マヨとは、死者の日に並ぶ世界的に有名なメキシコのイベントです。日本にいる方でも馴染みがあるのではないでしょうか?

よくこの時期になると世界各地でイベントが開催されていますよね。

そんなシンコ・デ・マヨのルーツは、1862年のプエブラの会戦にあります。プエブラの会戦でイグナシオ・サラゴサの指揮のもと、フランス軍から勝利したことを祝う日がシンコ・デ・マヨのきっかけとなりました。

それでは、どうしてシンコ・デ・マヨが重要なイベントになっているのでしょうか?

それは、プエブラの会戦について振り返ってみましょう。

1862年のプエブラの会戦について

ではまず、1862年のプエブラの会戦についてどんな戦争ったのか振り返ってみましょう。

プエブラの会戦は、メキシコ軍対フランス軍の間で行われた戦争でした。当時のナポレオン3世が、メキシコを侵略すべく、プエブラに出兵をしたのです。

メキシコ出兵・メキシコフランス戦争などとも言われます。

ナポレオン3世ってどんな人?

第二共和制の大統領だったが、クーデターを起こし第二帝政を開始した人。クリミア戦争によってウィーン体制を終結させたり、アフリカ・アジアにフランス植民地を数多く作るなど、フランスの影響力拡大を図った。

当時のメキシコは、ベニートフアレス大統領。イギリス・フランス・スペインに対する2年の対外債務の支払い延期を決定すると、それに反発する形でこれら3国が債務回収を目的にメキシコ出兵を決めます。しかし、政治的理由によりイギリス・スペインは撤退。フランス軍のみ残ります。

そしてフランス軍はメキシコ軍を攻撃し、迎え撃つメキシコ軍はイグナシオ・サラゴサ将軍とポルフィリオ・ディアス旅団長の指揮のもと防衛に成功した。これがプエブラの会戦です。

プエブラの会戦を経てメキシコはどうなった?

しかし、この敗戦によって火が付いたナポレオン3世はなおも派兵を続け、翌1863年にはメキシコシティを陥落。さらに、1864年、ハプスブルク家のマクシミリアンをオーストリアから迎えて皇帝に擁立し、結果的に、傀儡国家であるメキシコ帝国を建国させてしまった。

簡単なメキシコの歴史についてはこちらをご覧ください。

また、このプエブラの会戦をモデルにした映画もあります。それは「バトル・オブ・プエブラ」と言います。

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シンコ・デ・マヨの意義について

それでは、最初に質問を投げかけた、シンコ・デ・マヨの意義について考えてみましょう。

まず、メキシコ国民にとってこの5月5日が画期的な日だということです。メキシコは、アステカ帝国時代、スペイン人の侵略を受けてからメキシコはずっと外国の脅威にさらされてきました。

スペインから独立した後ですら、ヨーロッパやアメリカの脅威にさらされ、米墨戦争ではテキサスなどの領土を失ってしまうこともありました。

そんな世界的に見たら弱小国で先進国とはいえなかったメキシコが、あの大国のフランスに勝利をおさめることができたというのは、メキシコ人にとって非常に大きな出来事だったと言えるでしょう。

後ほど説明しますが、実はシンコ・デ・マヨがここまで広がったのはアメリカのおかげだと考えています。

1950年代にアメリカで起きた人種問題の数々、その問題にメキシコを始めとしたラテンアメリカに出自を持つラティーノの人々も苦しめられていました。メキシコ系アメリカ人コミュニティのメンバーには、白人との同化は可能か、ましてや同化は望ましいことか、という疑問を持ち始める者もでてきたほど。

1950年代にアメリカで起きた人種問題の数々、その問題にメキシコを始めとしたラテンアメリカに出自を持つラティーノの人々も苦しめられていました。メキシコ系アメリカ人コミュニティのメンバーには、白人との同化は可能か、ましてや同化は望ましいことか、という疑問を持ち始める者もでてきたほど。

そこから、ラテンアメリカに出自を持つことは誇りであるという考えがラティーノの間で広がり、それがチカーノ運動に広がったと言われています。

そんな彼らの尊厳を高めてくれたのは、過去にヨーロッパの国(フランス)を撃退したことがあるという事実だったと考えられるほど。

こうして民族意識と団結意識を強めるためのイベントとしてシンコ・デ・マヨはアメリカに住むラティーノにとっては非常に重要な意味を持つのです。

実はメキシコでの知名度はそんなに高くない⁈

メキシコでのシンコ・デ・マヨはどんな感じ?

実はこのシンコ・デ・マヨ、メキシコではそんなに有名ではないのです。

シンコ・デ・マヨが有名すぎて、メキシコの独立記念日とよく間違えられるほど…。特にアメリカではこのシンコ・デ・マヨがメキシコの一大イベントとして認識されているのです。

もちろん、スペインの植民地から独立(戦争の宣言をした日)したのは1810年9月16日で、5月5日ではありません。

それではメキシコのシンコ・デ・マヨはどんな感じなのか見ていきましょう。

メキシコでシンコ・デ・マヨを楽しむことができるのは、主にプエブラやメキシコシティ、南部の都市や街です。しかし、シンコ・デ・マヨの祝日は、メキシコの独立記念日(Día de la Independencia de México)とは異なる、象徴的な追悼の日であり、プエブラでは学校閉鎖もされ、お祭りが行われます。

プエブラでのシンコ・デ・マヨの様子!

プエブラ市とその周辺地域では、この戦いを記念して、毎年、軍隊の再現や、マリアッチ音楽、カラフルな衣装、フラメンコダンス、花火などを伴うパレードが行われています。

お祭りの始まりは、当時のプエブラの会戦の再現から。

フランス人とメキシコ人の兵士に扮して戦争を再現することから始まります。メキシコ人がフランス人をパレードで追いつき追い越すと、本格的なお祝いが始まります。

精巧な衣装を身につけた2万人以上のパフォーマーや地域の人々、巨大でカラフルな山車が登場する市民パレードが行われます。学校の子供たちや兵士たちが、豪華な衣装に身を包んだマリアッチ・ミュージシャンやフラメンコ・ダンサーたちと一緒に行進します。

祭りは、ストリートタコスなどの伝統的な料理を食べ、お菓子の入ったピニャータを吊るし、花火を打ち上げて始まります。

また、プエブラはグルメの街としても知られています。

シンコ・デ・マヨのお祭りの一環として、国際モレ祭も開催されているのです!

アメリカのシンコ・デ・マヨは移民の人権問題と共に広まった。

シンコ・デ・マヨ、アメリカが一番盛んにおこなわれている理由は移民にあります。

ラテンアメリカ系出身のアメリカ人「ラティーノ」は現在、アメリカ最大の少数民族で、2008年7月に発表された国勢調査の結果によると、国内に居住する4430万人のラティーノは総人口の15%を占めているといいます。

アメリカでシンコ・デ・マヨが広まったのは1950~60年代にかけてのことだと言われています。それ以降、ラテンアメリカに出自をもつ彼らが故郷を思い出す行事として定着したのです。

アメリカでは、「Cinco de Mayo」といえば、伝統的なメキシコ料理やテキーラ、ビールなどを大量に消費する日です。

イメージですが、中国の旧正月、ドイツのオクトーバーフェストといったように、○○人は○○の祭りというように、メキシコはシンコ・デ・マヨと認識されているようです。

日本のシンコ・デ・マヨ

実は日本でもシンコ・デ・マヨを楽しむことができます!

日本では、シンコデマヨ フェスティバルとして例年多くの来場者でにぎわっています。今年は、新型コロナウイルスの拡大に伴って、オンラインで開催されるそうです。

開催日時は、

  • 2021年 5月4日(火・みどりの日) 10:00-20:00
  • 2021年 5月5日(水・こどもの日) 10:00-20:00

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渡邉海也
メキシコシティに留学をしていましたカイヤと申します。スペイン語、アグリビジネス、移民問題をUNAMで学び、空手をメキシコでも稽古をし国際交流、そしてPinbox S.A. de C.V. でインターンという三本立てで生活をしていました。メキシコ滞在を通して感じたことを皆様にシェアできたらと思います。よろしくお願いします!