9/6更新|今週の新型コロナ情報はこちらから】再び感染拡大。メキシコシティは「黄色」信号に。

メキシコの歴史|独立の背景には実はこんなことがあった!

感染拡大。メキシコシティは黄色信号に

メキシコの新型コロナウイルスの最新情報を掲載しております。2021年9月4日現在、感染者は3,420,880を超え、国内全土で感染が拡大しております。

感染者数の推移

▼9/6~9/19信号情報▼

メキシコの詳しい新型コロナの状況について、詳しくは下記の記事をご覧ください。

メキシコ独立で有名なのはミダル・イダルゴが行った演説「ドローレスの叫び」ですよね。

彼以外にも独立に向け、勇気を出して行動を起こした人達がいます。

さらに、メキシコ独立の背景にはナポレオンのスペイン侵入が関わっていた事をご存知ですか?

メキシコの独立のきっかけはフランス革命まで遡ります。

スペイン危機の始まり

ブルボン家の統治

ブルボン家

1703年ブルボン家のフェリペ5世がスペインの王になり、ジブラルタル島をイギリスに奪われます。

ここから、ブルボン家による100年のスペイン統治が始まります。

この時期はヨーロッパにおいて暗い世紀として知られています。

1789年、啓蒙の世紀が始まり、主な考えは神の存在を信じることではありませんでした。思想家ヴォルテールは、神は信仰するものだが、人生は論理と理由があると言いました。

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ヴォルテール

フランスでは、啓蒙主義の考えに支えられた金持ち達が内戦を始めます。

この内戦の最初の年、スペインは攻撃したり支援したりしませんでした。

1792年、アランダ伯がフロリダブランカ伯に代わって宰相となりましたが、神よりも科学を信じていたので社会に受け入れられませんでした。同じ年に王、カルロス4世の命令により、王のお気に入りであり、王の妻の愛人であるマヌエル・ゴドイが代わって宰相となりました。

マヌエル・ゴドイ

マヌエルゴドイの最大の政治運動の1つは、バーゼルの和約に署名したことでした。

この事実により、彼は1795年に平和公(Príncipe de la Pazの称号を授かりました。

フランスでは、ナポレオンが政権を握り、スペインの軍隊をサン・イデルファンソ条約で迎え入れます。

1805年10月21日、スペインの王カルロス4世とフランスのナポレオン皇帝がイギリスとのトラファルガーの戦いのために団結します。

海軍を作成するために、カルロス4世は国民とアメリカ、中南米にあまりにも多くの資金を要求しました。フランスとスペインはイギリスのホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)に敗北します。スペインは経済危機を抱えます。

トラファルガーの戦い

イギリスが勝利したことにより、ジブラルタル海峡の海上通信が閉鎖され、アメリカと中南米はヨーロッパとの貿易を失うことになります。

フランスの影響

アランフェスの暴動

1808年フランス人の行動に騙されて反乱を起こしたスペインのアランフェス市の人々は、平和の王、マヌエルゴドイを攻撃し、王の息子にその権力を引き渡そうとしました。

ゴドイは宮殿から連れ出され、死にそうになるまで殴られました。

彼は権力を握るフェリペ王子に助けられ、市民の決定によりゴドイは免職、カルロス4世は退位となり、フェルナンド7世と名付けられた息子に王冠を渡します。

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フェリペ王子改めフェルナンド7世

このことにより、ブルボン統治の危機と苦痛が始まります。

クリオーリョで新しい考えが生まれる

ミゲル・イダルゴとクリオーリョ達

アメリカと中南米では、スペインでスペインで生まれたスペイン人の子供たちが統治するカトリック教会ではなく、新しい王が選ばれたというニュースが入ってきます。

スペインで生まれたスペイン人の人たちは航海の仕事や重要な仕事をしていましたが、実際は難しい仕事や大変な仕事は「クリオーリョ」と呼ばれる人々がしていました。

ペニンスラール:スペイン生まれの白人

クリオーリョ:植民地生まれの白人

メスティーソ:白人とインディオの混血

この「クリオーリョ」の階級の人たちは財務や首相としての重要な地位を保持することはできませんでした。

啓蒙の世紀が始まり、クリオーリョの人たちの考え方が変わり、彼らの努力が認められ、経済的に報酬が支払われる仕事ができることを望んでいました。

これらの領土では、ポルトガル軍の侵攻のため、スペイン軍の大半がスペインに戻らなければなりませんでした。

ナポレオンのスペイン侵略

スペイン王のフランス逃亡

ナポレオンは「新しい王は貴方を殺すつもりだ。自分といれば安全だ。」とカルロス4世を騙し、彼をフランスに連れて行きました。

一方、新しいスペイン王、フェルナンド7世には「国民が貴方を受け入れていないかもしれない。貴方の安全の為にフランスへ来るべきだ。」と騙し、フェルナンド7世は疑うことなくフランスへ逃げます。

ナポレオンはこの状況を利用して、新しい王に弟も連れて行くように説得します。

1808年5月2日、マドリードにいたフランス軍には新しい王の弟をフランスに連れて行くよう命令が出され、軍がそれに従おうとしていた時、アランフェスでの出来事の後だったので市民は混乱し、フランスがこの王室の家族を無理矢理連れて行っていると思いました。

画家ゴヤによる作品、1808年5月2日

マドリードの人々とフランス軍の戦いが始まりました。

スペイン人の上流階級はフランスを支持し、スペイン軍も市民をサポートしませんでした。

しかし、砲兵隊長ルイス・ダオイスペドロ・ベラルデは命令に従わず、フランス人に立ち向かいました。

12 de Octubre, Fiesta Nacional de España.
砲兵隊長ルイス・ダオイスとペドロ・ベラルデの記念碑

同じ日にフランスの指揮官ミュラはマドリード全域を侵略し、総督になりました。

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ミュラ

ミュラは戦いで死ななかった人々を殺害するよう命じ、スペイン全土に恐怖と支配を生み出しました。

ミュラはフランスを代表して権力を握りました。

1808年5月7日、カルロス4世とフェルナンド7世は、バイヨンヌへ連れて行かれ、ナポレオンに権力を与える事を余儀なくされ、ナポレオンはスペイン王として弟のホセ・ボナパルトに王冠を与えました。

ホセ・ボナパルト

スペイン国民はホセを王と受け入れませんでした。

今やフランスとポルトガルはすべてを維持したいと考えていたので、国民は戦いのためにスペイン軍に加わりました。

スペインとヌエバ・エスパーニャの分裂

1810年、スペインで起こった危機のため、アメリカ、中南米にいるスペイン軍に自分たち自身で生き残るように言いました。

これにより分裂が始まります。
クリオーリョはこの状況を利用して、スペイン人の権力を排除することを計画した評議会を作りました。

アメリカ大陸では成功し、アメリカという名前を付けました。

アルゼンチンでは、イギリス軍と戦い、勝利しました。

これらの出来事はクリオーリョが十分な強さを持っていることを認識させました。

彼らはもはやスペイン人に統治されることを望んでいませんでした。

革命の親達

front and center: Miguel Hidalgo

ヌエバ・エスパーニャでは以前、クリオーリョのミゲル・ドミンゲス、ホセファ・オルティスなどがスペイン人から独立しようとしましたが、その試みでは、バリャドリッドの都市では数が少なかったために失敗しました。

ホセファ・オルティスとミゲル・ドミンゲス

1810年、現在のケレタロ では地方長官のミゲル・ドミンゲス、妻のホセファ・オルティス、ヌエバ・エスパーニャでスペイン海軍の船長のイグナシオ・アジェンデ、軍隊のホアン・アルダマ、弟で法律学教授のイグナシオ・アルダマが行動を起こしました。

この人達は中流階級と上流階級の出身であるため、先住民の支援が必要であるとわかっていました。

そこで、アジェンデは先住民と農民に大きな影響と与え、賞賛された司祭達に話しました。

司祭のミゲル・イダルゴと銃工の兄弟エメテリオ・ゴンザレスエピグメニオ・ゴンザレスでした。

メキシコの革命の始まり

「ドローレスの叫び」

Grito de Dolores

その同じ年、スペイン軍はこれらのクリオーリョの陰謀を発見しました。

最初に刑務所に閉じ込められたのは、銃工の兄弟でした。ホセファはスペイン軍が全員を捕まえるつもりであることを知り、1810年9月11日にミゲル・イダルゴと一緒にドロレスイダルゴの街に行くつもりであるとアレンデに警告します。

一緒になって、拘束された人達を解放する為に多くの先住民と共謀者を集めます。

1810年9月16日の夜明けに、ミゲルイダルゴは教会の鐘を鳴らして戦争の始まりを人々に警告し、自由の為にスペイン人を戦うと宣言しました。

これが「ドローレスの叫び」です。

一方、スペインでは100万人以上のフランス軍がナポレオンの指揮の元、戦っていました。

スペインはアメリカとヌエバ・エスパーニャで何が起こっていたのかの情報がなく、ますます貧しくなりましたが、 踏ん張っていました。

奴隷制度廃止

カルデロン橋の戦い

1810年11月のヌエバ・エスパーニャで、最初の独立政府がグアダラハラの都市で作られました。

奴隷制度とスペインに支払わなければならない税金が撤廃されました。

ミゲル・イダルゴは戦いの主任指揮官として知られていましたが、1811年1月17日にカルデロン橋の戦いでは負けるかもしれませんでした。

彼はアルダマ兄弟とイグナシオ・アジェンデと共にアメリカに行きましたが、捕えられ処刑されました。

ホセファ・オルティスとミゲル・ドミンゲスは1810年9月15日に投獄され、1814年にミゲルは地方長官の地位を外され解放されました。

1817年にホセファが解放され、1822年にアグスティン・イトゥルビデがホセファを法廷に呼びました。

その時以来、ヌエバ・エスパーニャは戦いに勝利し、彼らの土地を「メキシコ」と呼びました。

ホセファにとって政府は彼女の独立の考えに反対していたので、侮辱的な存在でした。

ホセファはメキシコシティで1829年3月2日に亡くなりましたが、戦いを止めることはありませんでした。

ミゲルドミンゲスは、イトゥルビデ大統領の崩壊後、大統領になりました。

彼はメキシコ独立の最初の父と言われています。

エメテリオ・ゴンザレスは1812年に暗殺されました。

革命のために武器や弾薬を製造および保管していたエピグメニオ・ゴンザレスは、1810年に投獄されました。

刑務所で彼は共謀者を助け続けましたが、追放され、フィリピンへ送られました。

1821年にヌエバ・エスパーニャがスペインに勝利した時、エピグメニオは解放されましたが、病気になり足が不自由だったので、家に帰るお金がありませんでした。

彼はフィリピン政府の助けを借りてスペインに行き、商人にお金を貸してもらいます。

忘れられた英雄達

エメテリオ・ゴンザレスとエピグメニオ・ゴンザレス

エメテリオ・ゴンザレスとエピグメニオ・ゴンザレス

1838年にエピグメニオ・ゴンザレスがヌエバ・エスパーニャに戻ったとき、今は「メキシコ」と呼ばれていることを知りました。

しかし、ジャーナリストが新聞「LA REVOLUCIÓN」で彼の記事を書く1855年まで、彼が何をしたか誰も知りませんでした革命の父として知られなかったこの英雄は、1858年6月19日に亡くなりました。

この独立に向けた彼らのアイデアと少しの勇気のおかげで、中南米の国々が変わり、奴隷制度がなくなり、独立することが出来たのです。

最後に

いかがだったでしょうか?

フランスがスペインを侵略していなければ、メキシコの独立はもっともっと後になってからだったかもしれません。

また、独立に向けてのクリオーリョの人達の勇気がメキシコの独立につながりましたが、メキシコ人でさえも忘れてしまっている英雄達がいたことを知って頂けたと思います。

9月の独立記念日に向けて少しでもこの記事がお役に立てればと思います。

独立記念日の背景を知った上で、楽しみ方をご紹介した記事もありますのでそちらもご覧ください!

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